
岡 圭二(おか けいじ)
昭和60年成蹊大学法学部を卒業。高校・大学と大いに遊び惚けてしまった代償をこの卒業というタイミングで払わされるとは思いませんでした。親の仕事を継げばいいやという軽い気持ちもあったのかもしれませんが(兄は既に大手企業に駒を進めていましたので親の経営する一飲食店を継ぐつもりはないのは知っていたので)、当時は売り手市場であったにも関わらず就職活動はことごとく失敗し、当時一緒に遊んでいた友人たちは名だたる大手企業に就職を決めていくのを目の当たりにし人生最大の挫折を味わったのもこの時です。
最後の砦となった親の飲食店でしたが何のノウハウも経験もなく(中学3年の夏休みから暇なときはその店でアルバイトをしていましたがそれは経験と呼べるものではない事くらいは自分でもわかっていましたので)どこかで修行をしなければと考え、あるコネで某中堅の外食チェーン店の会社に就職することとなりました。
当時も勉強が苦手だったのでこのコネが無ければ入れたかも今となってはわかりませんが、外食の業界は昔も今も不人気業種である為、当時は大学を卒業しているというだけで入社できたおかしな時代でした。今ではこんな私を拾っていただけた会社には大変感謝していますし、当時はこの就職が人生最大の節目になるとは微塵も思っておりませんでした。なにも考えずに入社したそんな私ですが、最初にびっくりしたのは手取りの給料がとにかく少ないことでした。(学生時代に自動車修理工場でアルバイトをしていた頃の方がはるかに給料は高かった)お恥ずかしながら税金や保険等でこんなに引かれることすら知らず大いに驚きました。一方で大手企業に就職した友人たちとは給料に大きく差があり、一緒に遊びに行くと金銭感覚に差があることから、誘われても断ることが多くなりました。そしてここでもまた挫折感を味わうこととなり、とにかくお金が欲しいと思い、がむしゃらに働きましたが残念ながら多くのお金を手にすることは出来ません。
そして、入社2年目には私にとって衝撃的なことが起こります。それは心のどこかで期待していた将来継ぐことにしていた家業の倒産です。当時父は他界しており経営を母が担っていましたが経営が行き詰ってしまったのでした。正確には知らされませんでしたが、おそらく億近い負債があったのだと思います。自宅や資産すべてを売却することになり、行き場を失った私はまさに八方塞がり状態でした。
私は甲斐性もないままに入社3年目には結婚し子供も授かり、家族の為にますますお金が必要となってきていましたが、一向に思った給料には至らず、そんな我が家では1ケ月のお小遣い制度が敷かれ月1万円となりました。今から考えると当時の給料で生活と子育てを切り盛りしてくれた家内(現取締役経理部長)には感謝しています。小遣いが1万円であろうと家族を養うためには仕方ありません。すべては自分が招いたことだったからです。そんなお小遣いもやっと3万円となった10年目、当時33歳の私はこんなんじゃダメだ、と思い立ち独立を決意しました。
少ない資金でも一人で始められる業種ということから弁当製造販売の道を選んだのですが、当時、会社の仲間とともにレストランを独立開業する人間が何人かいました。しかし私には家族に加え仲間とはいえ他人様の人生を背負って独立する勇気はありませんでした。業種は決まりましたが、物件開発、資金調達、メニュー開発等やることは山積みでした。当時私は会社では店舗の企画・開発の業務を担当していましたのでまずは企画書を作成、物件に関してはとても運が良かったのですが、友人のN君が家業を継いで日本橋で会社を経営していてその倉庫部分を貸してくれることになりました。「ファッションは銀座」、「食は日本橋」と言われていた時代でしたので、私はここしかないと思い飛びつきました。これが現「日本橋べんと屋」のスタートラインです。
あとは資金調達です。在籍中は飲食店舗の業態開発や企画などを担当していた関係で企画提案書を書くことには慣れていたし上手に書ける自信もあったので、意気揚々と銀行に融資の申し込みをしました。ところが全ての銀行(大手銀行から地方銀行・地元の信用金庫と、かなりの銀行にアプローチしました)からことごとく断られ途方に暮れました。自己資金がなかった事が大きな理由でしたが、当時はベンチャーなどという言葉すらありませんでしたので、銀行はこんな若造の言うことは信じられなかったのでしょう。やっぱり無理なのかと半ば諦めかけていましたが、ダメ元で知人関係への金策を始めたところ、「東京都の独立支援融資に聞いてみるといいよ」と言われ早速都庁へ出向き、かなりの量の資料提出を求められましたが、何とか乗り越えて融資にこぎつける事が出来ました。蓋を開けてみると、融資が実行されたのは、私が最初に融資を頼みに行った銀行だったのです。私という人間には融資はできないが、東京都が良いというならと言わんばかりに融資の担当者はニコニコとお金を貸してくれました。その時私は、いつか絶対に、こいつらに頭を下げて「融資させてください」と言わせたいと思ったのを覚えています。
しかし全ての資金が調達できた訳ではありませんでしたが、本当にありがたいことに当時会社で取引先であったT様やC様から資金をお借りすることができ何とか開業にこぎつけたのでした。またこの両氏には開業にあたり色々なことをお手伝いいただきました。今ではこの方たちの支援がなければ成り立たなかったのだと心より感謝いたしております。
開業当社は店頭販売のみでなかなか売上も上がらず少なく運転資金も底を突いてしまいそうになった頃、先輩のKさんから仕出し弁当をやらないかと言われ、最後の資金を振り絞り中古のワゴン車を買って仕出し弁当を始めました。もちろん店頭での販売はいままで通り行いながらなので体にはかなり負担がかかることは予想できましたが、売上に勝るものは何もありません。Kさんには私に仕出しというチャンスを頂けたこと、そして今でもお取引いただいて、足を向けて眠ることができないとはこういう事を言うのだと思います。
さてこの仕出しですが朝、昼、夜中でも注文が入りましたが、無理な注文も取れるだけ受注し、がむしゃらに弁当を作り続け、開業3年に入りやっと軌道に乗り始めたころでした。突然前職の会社のU社長から連絡があり、会社に戻ってこないかと言われました。苦労してやっと軌道に乗りはじめていたので一度はお断りしましたが、U社長は何度も店に足を運んでいただき、こう言われました。店と会社の二足の草鞋でも良い。また将来の役員待遇を約束し企画開発部門を率いるという大役を任せたい。と言われ腰を抜かすほど驚いた事を忘れられません。なぜ私なのかと伺うと、U社長はこう言われました。「飲食業はサラリーマンには出来ないんだよ、店主感覚が最も大事で、自分の会社、自分の店だという気持ちが大切なんだ、君はそれを持っているからだよ」と。「勉強なんてできなくていい。決して諦めることなく何がなんでも実現するんだという熱意さえあれば会社の社長なんて勤まるものさ」とも笑って仰いました。当時56歳だったU社長は60歳という若さで亡くなってしまいましたが、いまでもこのU社長の言葉は私の中で生きています。このU社長との出会いは人生最大の出会いといっても過言ではないと思っています。
あれ以来、貴重な経験を25年間積ませていただきました。この間300店舗を超える店舗の出店や業態開発に携わることができ、また多くの失敗も経験しました。この独立経験、そして企画開発で培った業態開発力こそが、現在のコンサルティング事業の大きな糧となっています。外食店舗の経営はもちろんのこと、様々な業種の皆様に対し、私が培ってきた経験を活かした独自のコンサルティングを提供したいと考えております。
また、「世田谷カバン研究所」は、外食産業時代に多くのの動物たちの命を頂きそれを商売としてきたことから、その命を無駄にしないという今風に言えばSDGsの観点より革製品の製造をやってみたいという衝動に駆られました。もちろん私自身が革製品に昔から興味があったことと私自身の企画デザインのスキルを活かし、「自分が本当に持ちたい革製品を作りたい」という純粋な思いもあり始まりました。特徴的な銀製の金物をあしらったデザインは、持つ人の所有欲を満たす、他にはない魅力を追求しています。
今後の展望としては、これまで培ってきた「日本橋べんと屋」、「コンサルティング事業」、そして新たな挑戦である「世田谷カバン研究所」の各事業を、どこまでブラッシュアップし、新たな価値を創造し提供していくことが出来るかに挑戦していきたいと考えております。